青空のスローな生活

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<ぶらり旅>源義経宿陣之跡・満福寺(鎌倉市) ~ 腰越状起草の地

1180年(治承4年)8月、源頼朝が伊豆で打倒平氏の挙兵をしたとき、

 

奥州藤原氏のもとからいち早く駆け付け、

 

源平合戦を勝利へと導く立役者の一人となった弟・義経

 

1185年(元暦2年)3月24日、壇ノ浦の戦いで、平氏は滅亡し、

5月に、義経は、平氏方総大将の宗盛・清宗父子を護送する名目で京から鎌倉へ向かいます。

 

しかし、前年の8月、頼朝の許可なく朝廷から検非違使の職を受けるなどして怒りをかっていた義経は、

鎌倉に入ることを許されず、腰越で止められてしまいました。

 

このとき、義経は、頼朝にあてて切々とその心情を綴った腰越状を送ったとされています。

 

グーグルマップで腰越周辺を見ていたときに、偶然、源義経宿陣之跡」なるものを見つけました。

 

先日、義経腰越状を起草したと伝えられる満福寺鎌倉市)を訪ねてみました。

 

 

鎌倉時代の史実には、諸説あるものが多く、記載に間違いがありましたらご容赦ください。

 

目 次

 

腰越へ

腰越駅へは、藤沢駅から江ノ電で行きます。

 

 

江ノ島駅までが、10分ほど。次が、腰越駅です。

 

 

滝口寺前交差点を通過します。

普通鉄道では日本一急なS字カーブです。

ここから腰越駅までは、道路の上の軌道を走ります。

 

 

江の島が見えてきました。

 

 

腰越駅に到着です。

 

 

改札を出て腰越駅を見たところです。

左が腰越駅、右が海へとつながる道です。

 

 

藤沢駅方面に江ノ電が走っていきました。

 

 

江ノ電は、9月1日に開業120周年を迎えました。

 

それでは、腰越状を起草したと伝わる満福寺へ向かいましょう。

 

腰越状

1185年3月24日、「壇ノ浦の戦い」で源氏が勝利し、平氏滅亡しました。

 

同年5月、義経は、平氏方総大将の宗盛・清宗父子を護送する名目で京から鎌倉へ向かいます。

 

しかし、前年の8月、頼朝の許可なく朝廷から左衛門少尉・検非違使の職を受けるなどして怒りをかっていた義経は、

鎌倉に入ることを許されず、腰越で止められてしまいました。

 

このとき、義経が、頼朝にあてて切々とその心情を綴った腰越状を送ったとされています。

 

結局、鎌倉入りを認められなかった義経は、京に戻り、後白河法皇から頼朝追討の宣旨を得て挙兵しましたが失敗。

 

逆に追討の宣旨を出されて奥州藤原氏のもとへと逃れましたが、

1189年に「衣川の戦い」で藤原泰衡に自害に追い込まれました。

 

満福寺

満福寺は、744年に創建の真言宗のお寺で、義経が逗留し、「腰越状」を書いた地と伝えられているそうです。

腰越駅から徒歩5分位の所にあります。

2005年の大河ドラマ義経」の際も人気を集めたようです。

 

 

階段を登ると山門があります。

 

 

山門の右手に義経宿陣之跡」碑があります。

 

 

本堂です。

 

 

腰越状を起草する義経と書き記す弁慶の石像です。

 

 

「弁慶の腰掛石」です。

 

 

「弁慶の手玉石」です。

 

 

「硯の池」です。

 

 

義経公手洗の井戸」です。

 

 

お寺の中を拝観します。200円でした。

「夢とロマンの寺」とあります。

 

 

客殿です。

 

 

壇ノ浦の戦いの図です。

 

 

廊下にいた猫ちゃんです。

 

 

弁慶が書いたと伝わる腰越状の下書きとありました。

 

 

お寺の中から境内を見たところです。

 

 

お寺の中には、

弁慶の立往生

静の舞

平泉への道

など今に伝わる義経の人生のエピソードが描かれた襖絵が数多くありました。

 

満福寺を後にする

腰越状」は、鎌倉時代の歴史書吾妻鏡」に登場するようですが、

 

800年以上前の史実を正確に把握するすべはないでしょう。

 

今に伝わる史実の真否はさておき、

 

義経の約30年の激動の人生がコンパクトに詰められた「夢とロマンの寺」でした。

 

山門を出ると、江ノ電が鎌倉方面からやってきました。

 

 

海はすぐそばです。

 

ちょっと行ってみましょう。