青空のスローな生活

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<ぶらり旅>極楽寺坂切通・成就院(鎌倉市) ~ 新田義貞の鎌倉攻め

三方を山に囲まれ、一方が海である天然の要塞であった鎌倉。

 

鎌倉時代には、交通のために山などを切り開き切通(きりどおし)と呼ばれる道が造られました。

 

中でも、極楽寺切通は、鎌倉七口と呼ばれる重要な道の一つで、西国から鎌倉への入口でした。

 

歴史上、極楽寺坂が知られるようになったのは、1333年(元弘3年)の新田義貞による鎌倉攻めでしょう。

 

後醍醐天皇に呼応した討幕軍は、緒戦で幕府軍を破り、鎌倉の西の藤沢まで進軍します。

 

その後、三手に分かれ、巨福呂坂(こぶくろざか)、化粧坂(けわいざか)、極楽寺の各切通の突破を図り、幕府軍との間で激戦が繰り広げられました。

 

そして、極楽寺切通のそばには、1219年 (承久元年)、三代執権の北条泰時が一族繁栄を祈願して創建した成就院があります。

 

先日行った「極楽寺駅」。

 

kirakunist.hatenablog.com

 

極楽寺切通」「成就院」へは徒歩5分ほどです。

 

緑生い茂る切通を眺めながら、古(いにしえ)に想いを馳せてきました。

 

 

目 次 🚋

 

極楽寺切通

極楽寺切通は、鎌倉七口と呼ばれる重要な道の一つで、京をはじめとする西国からの鎌倉の入口でした。

 

極楽寺の開山・認証が最初に切り開いたと伝わっています。

 

極楽寺切通までは、極楽寺駅から徒歩5分ほどです。

 

 

駅の前を左折し、道なりに右へ進みます。

 

 

まっすぐ進みます。

 

 

極楽寺の碑がありました。

 

 

極楽寺切通です。(来た道を振り返っています)

 

 

現在は広く・深く削られて車道となっていますが、鎌倉時代には、もっと狭く・浅かったそうです。

 

ただ、往時の面影がどことなく残っているような気分になります。

 

虚空蔵堂・星の井

極楽寺坂の碑の近くに、後ほど参拝する成就院の境外仏「虚空蔵堂」があります。

 

 

そのそばには、鎌倉十井(井戸のこと)の一つ「星の井」があります。

 

 

成就院

極楽寺切通に面して、成就院があります。

 

1219年 (承久元年)、三代執権の北条泰時が一族繁栄を祈願して創建したそうです。

 

1333年(元弘3年)、新田義貞の鎌倉攻めの戦火で焼失しましたが、江戸時代に再建されました。

 

本尊は、不動明王、良縁成就の寺として知られています。

 

極楽寺切通から、参道を登っていくと「東結界」があります。

 

 

東結界から振り返ったところです。左の道が、極楽寺切通です。

 

 

参道をさらに登ると「山門」に到着です。

 

 

「参拝こころえ」です。

 

 

境内に入ります。

 

「文覚上人荒行像」がありました。

 

 

「本尊不動明王御分身」です。

恋愛成就のパワースポットとして有名です。

 

 

「本堂」です。

 

お参りします。

 

 

山門を出ると由比ヶ浜を一望できます。

 

現在は車道になっている極楽寺切通ですが、鎌倉時代には、この参道とほぼ同じ高さと幅だったようです。

 

 

鎌倉時代、鎌倉の西の入口に位置した極楽寺切通

 

当時、京都を含め西国から来た人々が初めて見る鎌倉の景色だったようです。

 

新田義貞の鎌倉攻め

1333年(元弘3年)、新田義貞が率いる討幕軍は、緒戦で幕府軍を破り、藤沢まで進軍します。

 

その後、三手に分かれ、巨福呂坂化粧坂極楽寺坂の各切通の突破を図ります。

 

しかし、幕府軍の守りは堅く混戦が続く中、新田義貞率いる軍勢は、稲村ヶ崎の海沿いの進軍に成功。

 

由比ヶ浜経由で鎌倉(幕府の置かれた鶴岡八幡宮周辺)へ攻め入ったと伝わります(諸説あり)

 

新田義貞が進軍したと伝わる稲村ヶ崎。この先が由比ヶ浜です)

 

十一人塚

稲村ヶ崎の近くには、鎌倉攻めの際、討ち死にした義貞の親戚・大館宗氏以下11人を埋葬し観音堂を建てたと伝わる十一人塚があります。

 

 

そして、昭和34年に稲村ヶ崎の造成現場で鎌倉時代の武士らしき多数の人骨が発見されたそうです。

 

碑のすぐ後ろには、その一部を埋葬したと伝わる場所もありました。

 

 

 

成就院が建立されたのは、北条氏の権力が盤石となった1219年 (承久元年)。

 

そして、新田義貞の鎌倉攻めで北条氏が滅び、鎌倉幕府が倒れたのは1333年(元弘3年)。

 

100年ほどの時の流れを瞬時に感じる場所でした。