青空のスローな生活

旅行、写真、乗り物、料理、日常の出来事の記録です。ちょっぴり贅沢しながら、節約ライフ実践中です。

奥州平泉への旅(岩手県)[ハプニング編]~新幹線に乗り遅れる

平安時代の末期、平泉(岩手県)を中心に奥州藤原氏のもとに花開いた平泉文化。

 

仏の教えによる平和な理想社会「仏国土(浄土)」を建設するというものでした。

 

史跡を巡り、身も心も洗われた思いで帰路につく‥(予定でした)

 

しかし、旅には、ハプニングが付き物です。

 

今回の旅で遭遇したハプニングとはいったい‥🤔

 

kirakunist.hatenablog.com

 

 

目 次 🚅

 

キュンパス

今回、平泉に行くにあたって利用した「キュンパス」。

 

JR東日本の列車が、新幹線、特急も含めて1日乗り放題です。

 

ただし、指定席は2回までしか使えません。

 

1回は、東京駅に向かう特急「湘南」で使い、

もう1回は、帰路の一ノ関駅(岩手県)~東京駅間の東北新幹線「はやぶさ」(←全席指定)を予約していました。

 

浄土の風

平泉には、「浄土の風」が吹いているようです🙄

 

初代清衡公が手掛けた中尊寺金色堂。

 

二代基衡公が造営した毛越寺(もうつうじ)の浄土庭園。

 

身も心も洗われる思いでした。

 

バス遅延

帰路は、毛越寺からバスで東北新幹線の「一ノ関駅」に向かうことにしました。

 

「一ノ関駅」からは、「はやぶさ」を予約してあります。

 

バスに乗る時間は、約15分。

 

駅について、新幹線が発車するまでは、約15分。

 

ちょっとギリギリですが、渋滞もなさそうだし、大丈夫でしょう😎

 

‥と考えたのが間違いでした。

 

今回、利用したバスは、交通系ICカードが使えず、現金かバスカードで支払います。

 

毛越寺バス停を出発した時は、地元の人と観光客で満車でした。

 

驚いたのは、バスを降りる際に車内で両替をする人がやたらと多いということです。

 

そのためバス停で停車するたびに、バスは遅延していきました。

 

新幹線に乗り遅れる

一ノ関駅に着いた時は、新幹線の発車まであと2~3分でした。

 

急いでバスを降りようとしましたが、両替の客が通路をふさいでいたため降りることができません。

 

やっとバスから降りて、新幹線の改札へと走りましたが、

予約していた「はやぶさ」は既に出発していました😭

 

北へ向かう

キュンパスの指定券2回分は使ってしまったので、自由席新幹線で帰るしかありません。

 

一ノ関駅に停まる次の「やまびこ」は、2時間後でした😲

 

しかも、皆さんが帰路につく時間帯なので「一ノ関駅」から乗ったのでは、自由席の座席が空いていない可能性があります。

 

そこで、2つ盛岡駅寄りの「北上駅」まで北上(😄)し、

「北上駅」から「やまびこ」に乗って「一ノ関駅」を経由して東京へ向かうことにしました。

 

夕暮れの中を北に向かいます。

 

どこか哀愁が漂っています‥

 

北上駅について、外に出てみました。

「鬼剣舞(おにけんばい)」のモニュメントがありました。

(※岩手県北上市周辺に伝わる伝統芸能)

 

この後、ホームに行き「やまびこ」の自由席の入口に30分間並びました。

 

帰路につく

「やまびこ」がやって来ました。

 

自由席車両は4両しかないので、混雑していましたがなんとか座れました。

 

一ノ関駅からは、かなりの人が乗ってきて通路まで一杯になりました。

 

どうやら、「北上作戦」が成功したようです😎

 

仙台、郡山と、東京に近づくに従って混雑度は増していきました。

 

キュンパスは、人気のようです。

 

予定より、2時間以上遅くなってしまいましたが、のんびりと帰ることにしましょう。

北上駅で買った「一関郷土芸能『鶏舞』をモチーフにした駅弁です。

 

 

想い出のワンショット~デジタル復刻版NO.11「春雪」

 

ここ数日、寒い日が続きますね。

桜の開花ももうすぐなのに、寒の戻りというやつでしょうか。

 

箱根町仙石原にある「箱根湿生花園」。

湿生地に生育する植物を中心とした植物園です。

冬季は閉園されますが、春の訪れとともに例年この時期に開園します。

その主人公は「水芭蕉」です。

春のひと時に姿を現すその可憐な花は写真の被写体としても魅せられます。

とある3月下旬、季節外れの雪が降りました。

春の訪れを告げる「水芭蕉」と雪の共演は絶好の写真のモデルです。

車にチェーンをはいて、箱根へと向かいました。

園内には雪が積もり、その中でひっそりと水芭蕉が咲いていました。

今では、箱根といえども3月下旬ともなれば雪はほとんど降らなくなりました。

そして、スノータイヤが一般的ではなく、タイヤにチェーンを巻いて車で箱根まで行った情熱には我ながら感心します。

当時だからこそ撮れた1枚かもしれません。

(スライドを業者がスキャンしてデジタル化)

 

【撮影データ】

[撮影年月]1999.3

[撮影地]箱根町・箱根湿生花園

[データ]<カメラ>ミノルタα507si<フィルム>ベルビア<レンズ>ミノルタAFズーム100-300㎜<絞り・シャッタースピード>f5.6+0.5オート

 

kirakunist.hatenablog.com

 

 

奥州平泉への旅(岩手県)~世界遺産・中尊寺金色堂へ

今をさかのぼること約900年前、

平安時代の末期、平泉(岩手県)を中心に奥州藤原氏のもとに花開いた平泉文化。

 

仏の教えによる平和な理想社会「仏国土(浄土)」を建設するというものでした。

 

その背景や姿は、前回の記事で書きました。

 

kirakunist.hatenablog.com

 

今回は、JR東日本の企画キップ「キュンパス」を握りしめて、いよいよ平泉へと向かいます。

 

巡るのは、世界遺産「中尊寺」と「毛越寺(もうつうじ)」です。

 

 

目 次

 

キュンパス

キュンパスは、JR東日本が2月14日から3月14日までの1か月間限定で販売した
「旅せよ平日!JR東日本たびキュン・早割パス」のことです。

 

JR東日本の列車が、新幹線、特急も含めて1日乗り放題で1万円という格安切符で、指定席も2回まで利用することが出来ます。

 

「えきねっと」のみでの扱いで、2週間前までに日にち指定で申し込むというものでした。

 

私は、雨男なので2週間先の日を予約するのは冒険でしたが、案の定、雨に降られました😭

 

平泉へ

東京駅へは、指定席1回目を使って特急「湘南」で向かいます。

 

東京駅から一ノ関駅(岩手県)までは、東北新幹線「やまびこ」の自由席で向かいます。

指定席2回目は、復路の「はやぶさ」で予約済みです。

 

福島に入ると山々に雪が残っています。

 

東京駅を出て約2時間半、一ノ関駅に到着です。

 

一ノ関駅で東北本線に乗り換えて、

 

平泉駅に到着です。

キュンパスは大人気のようで、平日なのに若い人も目立ちました。

 

中尊寺金色堂

天台宗東北大本山「中尊寺」は、850年に慈覚大師円仁の開山です。

 

奥州藤原氏の初代清衡が、大伽藍を造営しました。

 

中尊寺というのは山全体の総称であり、本寺である「中尊寺」と山内17ヶ院の支院で構成されています。

(中尊寺公式から借用)

 

中尊寺入口に到着しました。

 

月見坂と呼ばれる参道です。

江戸時代に伊達藩により整備された杉並木が見事です。

 

途中、東物見台があります。

北上川が右手に見え、それに弁慶が立往生したという衣川が合流します。

 

本堂の表門です。

 

中尊寺の根本道場である本堂です。

 

参道を進みます。

 

白山神社にある国重要文化財の能楽殿です。

 

金色堂を守るために鎌倉時代から被せられていた旧覆堂です。

昭和の大改修で現在地に移設されたものです。

 

伊達政宗や松尾芭蕉らも立ち入ったとされる建物です。

 

今回の旅の最大の目的地「金色堂」です。

中尊寺創建当初の姿を今に伝える唯一の建造物で、堂の内外に金箔を押した「皆金色」の阿弥陀堂です。

建物を守るために覆堂で囲まれています。

 

入ってみましょう。

堂内の写真撮影は、NGです。

 

 

みごとです‥

(‥と言ってもこればかりは見てみないと分かりませんね😆)

 

 

中尊寺公式HPからお借りしました。

須弥壇の上に阿弥陀如来、観音菩薩、勢至菩薩らが並んでいます。

壇の内部には、奥州藤原氏の初代清衡、二代基衡、三代秀衡の遺体と四代泰衡の首級が安置されているそうです。

 

毛越寺

中尊寺を後にし、同じく平泉にある毛越寺にバスで向かいました。

 

毛越寺は、二代・基衡によるもので壮大な伽藍と大泉が池を中心とする浄土庭園が築造されました。

(毛越寺公式から借用)

 

伽藍は焼失しましたが、遺構と庭園は残り、国の特別史跡・特別名勝となっています。

 

また、世界遺産の構成資産でもあります。

 

本堂です。

 

大泉が池を中心とした浄土庭園です。

 

雨男の本領発揮ですが、雨の中で池を見ていると心が洗われるようです。

 

 

約900年前に栄えた平泉文化。

 

建造物の多くは焼失してしまいましたが、

 

随所に往時の仏国土(浄土)の風が吹いているような気がしました。

 

 

奥州平泉への旅(岩手県)[プロローグ]~奥州藤原氏と平泉文化

平安時代の末期、約100年の間、平泉(岩手県)を中心に東北地方を勢力下に収め、繁栄を極めた奥州藤原氏。

 

中尊寺をはじめ平泉一帯は、当時、平安京に次いで日本第二の都市ともいわれた存在です。

 

東北の地で花開いた文化。

 

2011年6月に平泉の文化遺産は、世界遺産に登録されました。

 

一度、訪れてみたいと思っていた地です。

 

3月14日までの1か月限定で販売された「キュンパス」。

 

平日限定でJR東の全線が1日乗り放題で1万円でした。

 

「キュンパス」を使って、東北新幹線で奥州平泉に行くことにしました。

 

旅行に先立って、下調べをしていたら「前九年の役」「後三年の役」の文字が‥

 

とお~い昔の高校時代、日本史で聞いた記憶がありますが内容はスッカリ忘れていました😆

 

知っているようで知らない奥州藤原氏・平泉文化。

 

出発に先立って、おさらいしてみました( ..)φ

 

 

目 次

 

前九年の役

半11世紀半ばの平安時代の中期、

陸奥国(岩手県外3県)には、「安倍氏」という豪族が、勢力を広げていました。

 

この力を恐れた朝廷は、源頼義を陸奥守として派遣し、

安倍氏と戦争を始めたのが「前九年の役」(1051~1062年)です。

 

12年に渡る合戦は、源頼義が出羽国(秋田県)の豪族「清原氏」と結んだことにより勝利します。

(平泉町HPより借用)

 

安倍氏側に付いた豪族・藤原経清は斬首されますが、

子の清衡(後の奥州藤原氏の祖)は、母である安倍氏の娘が、

清原氏に再嫁したため共に清原清衡として清原一族となりました。

 

後三年の役

その約20年後に、清原一族での内紛に陸奥守が介入するという「後三年の役」(1083~1087年)が起こり、清原氏は滅亡しました。

 

そして、「安倍氏」・「清原氏」の遺領を継承したのは、前九年の役で斬首された藤原経清の子「清衡」でした。

(平泉町HPより借用)

 

奥州藤原氏

清衡は、名を「藤原清衡」に改め拠点を平泉に移し、

基衡・秀衡・泰衡と4代にわたり奥州藤原氏として100年もの間、

奥州の覇者として君臨しました。

 

奥州藤原氏が繁栄したのは、豊富にとれる金、良質の馬、交易などによる経済的基盤と

それらを背景として朝廷との親密な関係を構築できたためともいわれています。

 

平泉文化

清衡は1105年(長治2年)から中尊寺の造立に着手し、多宝寺、釈迦堂、二階大堂を整備し、中でも金色堂はすべてを金で覆い荘厳を極めるものでした。

 

それは、11世紀後半に東北地方で続いた戦乱(前九年・後三年の役)で亡くなったすべてのものの霊を慰め、

仏の教えによる平和な理想社会「仏国土」を建設するというものでした。

(中尊寺公式より借用)

 

二代・基衡は、薬師如来を本尊とする毛越寺(もうつうじ)を再興し、

壮大な伽藍(がらん)と庭園の規模は京に勝るとも劣らないものだったといわれています。

(毛越寺公式より借用)

 

三代・秀衡が建立した、無量光院は、阿弥陀如来を本尊とし、宇治・平等院鳳凰堂を模したもので、

仏堂と苑池が一体として配された「浄土庭園」の最高傑作ともいわれています。

(平泉町観光協会HPより借用)

 

 

度重なる戦火などで現存する当時の建物は中尊寺金色堂など一部となっています。

 

中尊寺、毛越寺、観自在王院跡、無量光院跡、金鶏山を構成資産とする

平泉<仏国土(浄土)を表す建築・庭園及び考古学的遺跡群>は、2011年6月に世界遺産に登録されました。

 

盛者必衰

平泉は約100年近くにわたって繁栄し、陸羽は戦争のない時代が続いたといわれます。

 

しかし、源平合戦で活躍した源義経が、兄の頼朝と対立して追われ平泉に落ちのびた後、

四代・泰衡は頼朝の圧力に耐えかね義経を自害に追い込みました。

 

その泰衡も頼朝に攻められ、1189年(文治5年)、奥州藤原氏は滅亡しました。

 

 

夏草や兵どもが夢の跡

 

 

1689年(元禄2年)、「奥の細道」でこの地を訪れた松尾芭蕉は、こう詠みました。

 

 

 

では、おさらいした知識を携え、

平泉へしゅっぱ〜つ!

 

 

母の四十九日を迎えました。

1月末に92歳で亡くなった母の四十九日を迎えました。

 

健康に恵まれて80歳まで民謡に没頭していた母。

その後、寄る年波に抗しきれず、大病をいくつか患いましたが、手術を経て日常生活を取り戻しました。

しかし、90歳のときに心不全と診断され、医師から家族には余命2年ほどと伝えられました。

 

5年前に父が亡くなった後、市内にある実家で一人暮らしを続けてきた母。

姉と私でフォローしてきましたが、2年前からは週に1回ずつの計2日、定期的に通っていました。

その頃から、食欲が落ち、また転んで怪我をすることがあり心配していました。

 

昨年の10月末の夕方、母から転んで足が痛いとの電話があり、車で駆け付け、おぶって車に乗せ総合病院の夜間救急に連れていきました。

「大腿骨転子部骨折」と診断され、入院。

翌々日、手術を受け1週間ほど入院したのち、自宅での生活に戻れる可能性が高いとのことで、リハビリ病院に転院しました。

 

しかし、1ヶ月が経過しても、心臓の病気もありリハビリが進まず、食欲も落ちていきました。

自宅に戻ることができない事態に備え、福祉施設を探すことになりました。

 

1月中旬、食欲が極度に落ちたため、医師から経鼻経管栄養も選択肢となると言われました。

 

5年前、容態が悪化していた父に中心静脈栄養を選択し、
その後亡くなるまでの3か月間、療養型病院で意識がないまま過ごす姿を見て、
人間の尊厳とは何か、ということを考えさせられました。

 

それ以来、母も家族も、次に判断を求められたときは、延命治療は望まない、との結論に至りました。

 

しかし、今回の母の状態は、食事は摂りにくいものの意識はしっかりしていました。

その状況で治療の中止を選択するということは、とても難しいものがあります。

 

そうこうしているうちに、1月末、母の容態が急変し、急性期病院へと搬送されました。

 

苦しそうな状況の母を見舞った後、医師から、現在の状況を脱した後の延命治療について、2,3日のうちに家族としての考えを回答して欲しいと伝えられました。

 

病院から帰る車の中で、母の血中酸素飽和度が低下しているので病院に戻るよう電話がありUターンしました。

 

病室に着くと、先ほどまでの苦しみから解放され、安らかな時を迎えている表情でした。 

 

それから数時間後、母は息を引き取りました。

 

父に続き母の場合も、究極の選択をすることなく、見送ることができました。

 

延命治療は望まない、そう考える人が多いと思います。

 

ただ、いざその場に臨んだ時、人生の最終段階における医療・ケアの決定プロセスというのは、まだまだ十分な議論がなされていないように思います。

 

母が亡くなり、葬儀などで慌ただしく過ごす中、両親の生涯の思い出が詰まった実家の遺品整理をやって来ました。

四十九日を迎え、気持ちの整理のため記しておくものです。

 

(92歳の誕生日に贈ったアレンジメント)

 

 

鉄道の車止めNO.12 箱根登山鉄道「箱根湯本駅」(箱根町)~80‰を見る

終着駅の「車止め」が醸し出す情景を記録する「鉄道の車止め」シリーズ。

 

第12弾は、箱根登山鉄道「箱根湯本駅」です。

 

でも、箱根湯本駅は、箱根登山鉄道の途中駅であって、終着駅ではないんですね。

 

その駅に「車止め」がある理由とは‥

 

 

目 次 🚋

 

箱根登山鉄道

「箱根登山電車」の名で親しまれる箱根登山鉄道は、小田急グループの箱根登山鉄道(株)が運行する路線です。

 

箱根の玄関口「小田原駅」と標高541mの終点「強羅駅」を結びます。

 

小田原駅から箱根湯本駅までは、小田急の車両が乗り入れ、特急ロマンスカーも走ります。

 

そして、箱根湯本駅からは、本格的な山岳鉄道となり、険しい山をグングンと登っていきます。

 

今回は、小田原駅から箱根湯本駅までの旅となります。

 

沿 線

箱根登山鉄道には、小田原駅から乗ります。

小田急と同じ改札です。

 

7番線のホームに降りて、どんどん箱根方面にいくと、箱根登山鉄道の乗り場です。

でも、小田急の車両です😄

 

先頭車両に乗ります。

 

出発進行!

 

一つ目の駅「箱根板橋駅」です。

 

「風祭駅」に到着です。

かまぼこの老舗「鈴廣蒲鉾本店」のある場所で、「かまぼこの里」があります。

 

次が「入生田駅」です。

県立の自然系博物館「生命の星・地球博物館」があります。

 

「箱根湯本駅」の「車止め」が見えてきました。

 

到着です。

 

「車止め」の向こうに、箱根登山電車の「アレグラ号」が停車しています。

 

 

箱根湯本駅

強羅側に行って撮った箱根登山鉄道の「車止め」です。

 

さらにホームの先端に行って「アレグラ号」を見たところです。

カッコいいですね。

 

強羅に向かって走り出しました。

 

行ってらっしゃ~い👋

 

 

80‰(パーミル)

箱根湯本駅の改札を出て、正面口に行きました。

f:id:kirakunist:20240106210929j:image

 

エスカレーターの近くからは、強羅方面に向かう線路が見えます。

 

80‰(パーミル)の標識です。

 

80‰(パーミル)とは、1000m走る間に80m登るという粘着式鉄道では日本一の急勾配です。

 

その雄姿をみていきましょう。

 

強羅行きがやってきました。

 

ぐ~ん

 

ぐ~ん

 

行ってらっしゃ~い👋

 

 

強羅まで箱根登山電車で行ったことは何回もありますが、こんな凄いことをやってのけているとは知りませんでした。

 

今度、ゆっくり強羅まで行ってみたいです。

 

 

JR田浦駅「七釜トンネル」(横須賀市)~明治・大正・昭和三代の隧道

横須賀と聞くと海をイメージする人が多いと思います。

 

しかし、三浦半島の中央部に位置し、山も多く、「日本一トンネルが多い土地」ともいわれています。

 

横須賀市の東側を走るJR横須賀線もいくつものトンネルを通り抜けます。

 

その中でも、2つのトンネルに挟まれた「田浦駅」(たうら)には、

明治・大正・昭和の三代に作られた「七釜(しっかま)トンネル」があります。

 

先日、JR横須賀線の終着駅「久里浜駅」に行ったとき、途中下車して見てきました。

 

kirakunist.hatenablog.com

 

 

目 次 🚃

 

田浦駅

田浦駅は、東逗子駅と横須賀駅の間にある1904年(明治37年)に開設された駅です。

 

1日の平均乗車人員は2,000人弱とかなり少ない駅です。

 

トンネルの多い横須賀線ですが、田浦駅は、駅の両端をトンネルに挟まれた駅です。

 

逗子方面から横須賀線に乗っていくと田浦トンネルが見えてきます。

 

田浦トンネルを通過します。

 

田浦駅のホームが見えてきました。

 

ドアカット

ホームを過ぎて、先頭車両は次の七釜トンネルの中に入っていきます。

 

先頭車両は、トンネルの中に停車しました。

オーバーランしているわけではありません。

 

トンネルに挟まれた駅のため先頭車両と2番目の車両の1つ目のドアがトンネルの中に入ってしまいドアが開きません。

 

これをドアカット(ドアの締め切り)といいます。

 

神奈川の鉄道では、田浦駅と江ノ電腰越駅でドアカットが行われるくらいで、珍しいことのようです。

 

田浦駅で下車するので車両内を移動し、2両目からホームに降りました。

 

横須賀線は、横須賀駅方面へと走り去っていきました。

 

七釜トンネル

田浦駅で途中下車した目的は、「七釜(しっかま)トンネル」を見るためです。

 

明治・大正・昭和の三代に作られたトンネルです。

 

一番古いのは、今乗ってきた中央のトンネル(下り線)で、横須賀線が開通した明治22年(1889年)に造られたものです。

 

次に古いのは、右側の煉瓦造りのトンネル(上り線)で、大正13年(1925年)の複線化により増設されたものです。

 

一番新しいのは左側のトンネルで、戦時中の昭和18年に、海軍の軍需輸送専用の引込み線として造られたものです。

現在は、廃線となっています。

 

ここの地域の字名は「失鎌」というそうですが、蒸気機関車が「釜を失う」というのを嫌い、当て字の「七釜」に変えたと伝わっています。

 

田浦駅の七釜トンネルは、「旧軍港四市の日本遺産」の構成文化財に認定されています。

(※旧軍港四市とは、横須賀・呉・佐世保・舞鶴の4市です。)

 

田浦トンネル

田浦駅の「七釜トンネル」の反対側、東京寄りにあるのが「田浦トンネル」です。

 

右側が、開業当時の明治22年(1889年)のもの、

左が大正13年(1925年)に増設されたものです。

 

跨線橋から眺める

田浦駅は、駅の作りもレトロなものです。

 

駅の南口に出てみましたが、駅名の表示が見当たらなかったので、北口に行きました。

 

昔ながらの駅の情緒を感じます。

 

跨線橋から見た「失釜トンネル」です。

E217系が停まっています。

 

昭和18年に造られた引き込み線は、現在は使われていないことがわかります。

 

「田浦トンネル」です。

味わい深いトンネルです。

 

 

「七釜トンネル」、そして「田浦トンネル」。

 

明治22年(1889年)から、135年の年月を感じることができる場所です。

 

 

さて、横須賀線の新型車両「E235系」がやって来ました。

 

では、終点の「久里浜駅」まで行きましょう。