平安時代の末期、約100年の間、平泉(岩手県)を中心に東北地方を勢力下に収め、繁栄を極めた奥州藤原氏。
中尊寺をはじめ平泉一帯は、当時、平安京に次いで日本第二の都市ともいわれた存在です。
東北の地で花開いた文化。
2011年6月に平泉の文化遺産は、世界遺産に登録されました。
一度、訪れてみたいと思っていた地です。
3月14日までの1か月限定で販売された「キュンパス」。
平日限定でJR東の全線が1日乗り放題で1万円でした。
「キュンパス」を使って、東北新幹線で奥州平泉に行くことにしました。
旅行に先立って、下調べをしていたら「前九年の役」「後三年の役」の文字が‥
とお~い昔の高校時代、日本史で聞いた記憶がありますが内容はスッカリ忘れていました😆
知っているようで知らない奥州藤原氏・平泉文化。
出発に先立って、おさらいしてみました( ..)φ
目 次
前九年の役
半11世紀半ばの平安時代の中期、
陸奥国(岩手県外3県)には、「安倍氏」という豪族が、勢力を広げていました。
この力を恐れた朝廷は、源頼義を陸奥守として派遣し、
安倍氏と戦争を始めたのが「前九年の役」(1051~1062年)です。
12年に渡る合戦は、源頼義が出羽国(秋田県)の豪族「清原氏」と結んだことにより勝利します。
(平泉町HPより借用)
安倍氏側に付いた豪族・藤原経清は斬首されますが、
子の清衡(後の奥州藤原氏の祖)は、母である安倍氏の娘が、
清原氏に再嫁したため共に清原清衡として清原一族となりました。
後三年の役
その約20年後に、清原一族での内紛に陸奥守が介入するという「後三年の役」(1083~1087年)が起こり、清原氏は滅亡しました。
そして、「安倍氏」・「清原氏」の遺領を継承したのは、前九年の役で斬首された藤原経清の子「清衡」でした。
(平泉町HPより借用)
奥州藤原氏
清衡は、名を「藤原清衡」に改め拠点を平泉に移し、
基衡・秀衡・泰衡と4代にわたり奥州藤原氏として100年もの間、
奥州の覇者として君臨しました。
奥州藤原氏が繁栄したのは、豊富にとれる金、良質の馬、交易などによる経済的基盤と
それらを背景として朝廷との親密な関係を構築できたためともいわれています。
平泉文化
清衡は1105年(長治2年)から中尊寺の造立に着手し、多宝寺、釈迦堂、二階大堂を整備し、中でも金色堂はすべてを金で覆い荘厳を極めるものでした。
それは、11世紀後半に東北地方で続いた戦乱(前九年・後三年の役)で亡くなったすべてのものの霊を慰め、
仏の教えによる平和な理想社会「仏国土」を建設するというものでした。
(中尊寺公式より借用)
二代・基衡は、薬師如来を本尊とする毛越寺(もうつうじ)を再興し、
壮大な伽藍(がらん)と庭園の規模は京に勝るとも劣らないものだったといわれています。
(毛越寺公式より借用)
三代・秀衡が建立した、無量光院は、阿弥陀如来を本尊とし、宇治・平等院鳳凰堂を模したもので、
仏堂と苑池が一体として配された「浄土庭園」の最高傑作ともいわれています。
(平泉町観光協会HPより借用)
度重なる戦火などで現存する当時の建物は中尊寺金色堂など一部となっています。
中尊寺、毛越寺、観自在王院跡、無量光院跡、金鶏山を構成資産とする
平泉<仏国土(浄土)を表す建築・庭園及び考古学的遺跡群>は、2011年6月に世界遺産に登録されました。
盛者必衰
平泉は約100年近くにわたって繁栄し、陸羽は戦争のない時代が続いたといわれます。
しかし、源平合戦で活躍した源義経が、兄の頼朝と対立して追われ平泉に落ちのびた後、
四代・泰衡は頼朝の圧力に耐えかね義経を自害に追い込みました。
その泰衡も頼朝に攻められ、1189年(文治5年)、奥州藤原氏は滅亡しました。
夏草や兵どもが夢の跡
1689年(元禄2年)、「奥の細道」でこの地を訪れた松尾芭蕉は、こう詠みました。
では、おさらいした知識を携え、
平泉へしゅっぱ〜つ!