青空のスローな生活

旅行、写真、乗り物、料理、日常の出来事の記録です。ちょっぴり贅沢しながら、節約ライフ実践中です。

母の四十九日を迎えました。

1月末に92歳で亡くなった母の四十九日を迎えました。

 

健康に恵まれて80歳まで民謡に没頭していた母。

その後、寄る年波に抗しきれず、大病をいくつか患いましたが、手術を経て日常生活を取り戻しました。

しかし、90歳のときに心不全と診断され、医師から家族には余命2年ほどと伝えられました。

 

5年前に父が亡くなった後、市内にある実家で一人暮らしを続けてきた母。

姉と私でフォローしてきましたが、2年前からは週に1回ずつの計2日、定期的に通っていました。

その頃から、食欲が落ち、また転んで怪我をすることがあり心配していました。

 

昨年の10月末の夕方、母から転んで足が痛いとの電話があり、車で駆け付け、おぶって車に乗せ総合病院の夜間救急に連れていきました。

「大腿骨転子部骨折」と診断され、入院。

翌々日、手術を受け1週間ほど入院したのち、自宅での生活に戻れる可能性が高いとのことで、リハビリ病院に転院しました。

 

しかし、1ヶ月が経過しても、心臓の病気もありリハビリが進まず、食欲も落ちていきました。

自宅に戻ることができない事態に備え、福祉施設を探すことになりました。

 

1月中旬、食欲が極度に落ちたため、医師から経鼻経管栄養も選択肢となると言われました。

 

5年前、容態が悪化していた父に中心静脈栄養を選択し、
その後亡くなるまでの3か月間、療養型病院で意識がないまま過ごす姿を見て、
人間の尊厳とは何か、ということを考えさせられました。

 

それ以来、母も家族も、次に判断を求められたときは、延命治療は望まない、との結論に至りました。

 

しかし、今回の母の状態は、食事は摂りにくいものの意識はしっかりしていました。

その状況で治療の中止を選択するということは、とても難しいものがあります。

 

そうこうしているうちに、1月末、母の容態が急変し、急性期病院へと搬送されました。

 

苦しそうな状況の母を見舞った後、医師から、現在の状況を脱した後の延命治療について、2,3日のうちに家族としての考えを回答して欲しいと伝えられました。

 

病院から帰る車の中で、母の血中酸素飽和度が低下しているので病院に戻るよう電話がありUターンしました。

 

病室に着くと、先ほどまでの苦しみから解放され、安らかな時を迎えている表情でした。 

 

それから数時間後、母は息を引き取りました。

 

父に続き母の場合も、究極の選択をすることなく、見送ることができました。

 

延命治療は望まない、そう考える人が多いと思います。

 

ただ、いざその場に臨んだ時、人生の最終段階における医療・ケアの決定プロセスというのは、まだまだ十分な議論がなされていないように思います。

 

母が亡くなり、葬儀などで慌ただしく過ごす中、両親の生涯の思い出が詰まった実家の遺品整理をやって来ました。

四十九日を迎え、気持ちの整理のため記しておくものです。

 

(92歳の誕生日に贈ったアレンジメント)