1180年(治承4年)8月、源氏再興のため伊豆で挙兵した源頼朝。
数日後には、石橋山(現小田原市)で平家との戦になります(石橋山の戦い)。
平家方の大庭景親勢は3000騎、頼朝側は300騎ともいわれ、
戦に敗れた頼朝軍は、箱根や湯河原の山中に潜みながら、真鶴から海路、安房国(現千葉県)へと脱出しました。
体制を立て直した後、10月には、頼朝は数万の軍勢を率いて鎌倉入りを果たしたといわれています。
この安房への「源頼朝船出の浜」が、真鶴の「岩海岸」といわれており、
また、頼朝が追手から身を隠したと伝えられる「しとどの窟(いわや)」
が残されています。
先日、頼朝の足跡をおって、真鶴町を訪ねてみました。
※鎌倉時代の史実には、諸説あるものが多く、以下の記載に間違いがありましたらご容赦ください。
目 次
真鶴町
真鶴町は、神奈川県の南西部に位置し、南を湯河原町、北を小田原市と接する人口約6,500人の町です。
真鶴町のある真鶴半島は、相模湾の西の境であり、溶岩台地であることから、かつては、良質の石が産出されたところです。
真鶴には、東海道本線で行きます。
真鶴駅に到着です。
しとどの窟
最初に、「しとどの窟(いわや)」に行きましょう。
「石橋山の戦い」で平家に敗れた頼朝は、箱根や湯河原の山中に隠れ、
最後に、真鶴の「しとどの窟」に身を隠したといわれています。
(※「しとどの窟」は、湯河原町の山中にもあります)
平家方の大庭景親軍にいた「梶原景時」が、隠れている頼朝を発見したものの見逃したというエピソードは有名です(真否不明)。
梶原景時は、後の「鎌倉殿の13人」の一人となります。
真鶴駅から「しとどの窟」までは、約1.5㎞です。
真鶴港を目指して歩を進め、
県道739号沿いに「しとどの窟」はあります。
近付くと、こんな感じです。
「しとどの窟」の上の方は、こんな感じです。
頼朝の時代には、約130mの奥行きがあり、海に面していたらしいです。
波の浸食、関東大震災による隆起、安山岩石の採掘などで、現在では、10mほどになっています。
謡 坂
では、「源頼朝船出の浜」に向かいましょう。
起伏のある真鶴の町を徒歩約1.5㎞の道のりです。
県道739号を戻ります。
くねくねした道を行くと、途中に「謡坂」(うたいざか)という史跡があります。
頼朝の真鶴からの脱出に多大な貢献をした武将「土肥実平」ゆかりのものです。
土肥実平は、湯河原・真鶴に本拠を置いた武将です。
「源平盛衰記」によれば、平家方に館を焼かれた実平が、戦意を鼓舞するために、歌い、踊ったとされています。
「源頼朝船出の浜」の岩海岸へは、もう少しです。
源頼朝船出の浜
「源頼朝船出の浜」に到着しました。
碑があります。
この碑の真後ろに「源頼朝開帆処(かいはんしょ)」の碑が建っています。
この碑は、別の所にあったものが、ここに移設されたようです。
「源頼朝船出の浜」(岩海岸)です。
正面は真鶴ブルーライン(国道135号)の岩大橋で、その先が房総方面です。
砂浜部分は、コロナ前までは、岩海水浴場が開設されていた所です。
左手に見えた島(弁天島)です。
島の左側は、岩がゴツゴツしていました。
頼朝が挙兵したのは、1180年(治承4年)8月17日。
石橋山の戦いで敗走したのが、8月24日。
そのわずか、4日後の8月28日、
この浜から、土肥実平ら主従7騎で、安房へ向かったといわれています。
そして、体制を整えた頼朝は、10月には、数万ともいわれる軍勢を率いて、鎌倉入りを果たします。