青空のスローな生活

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<ぶらり旅> 生麦事件碑(横浜市鶴見区) ~ 日本近代化の幕明けへ

時は幕末、文久2年8月21日(1862年9月14日)。

 

幕政改革の勅命を幕府に伝える勅使・大原重徳の護衛の任を終え、

江戸を立ち京都へ向かう薩摩藩主の父・島津久光の行列が、

武蔵国生麦村(現横浜市鶴見区生麦)に差し掛かったとき、

 

騎乗のイギリス人4名が遭遇しました。

 

行列を妨害したとして、薩摩藩士がイギリス人商人リチャードソンを殺害、2名に深手を負わせました。

 

日本の近代史の中では、忘れてはならない生麦事件です。

 

NHK大河ドラマ「青天を衝け」の2月14日の第一回放送のオープニングで、

渋沢栄一が、徳川慶喜の馬前に立ち塞がるシーンがありました。

それが文久4年(1864年)とのことです。

時代的には、その頃のイメージです。

 

 

県内での出来事ですが、現場には行ったことがありませんでした。

 

約160年前の出来事ですが、その歴史の一端を手繰ってみました。

 

(※史実・解釈の違いなどがありましたらご容赦ください。)

 

 

目 次

  

生麦事件発生現場・碑

生麦事件発生現場」は、旧東海道川崎宿」と「神奈川宿」の間にあります。

 

そして、そこから数百メートル離れて、切られたリチャードソン氏が落命した場所に生麦事件碑」があります。

 

初めに、事件の発生現場を訪れます。

 

横浜駅から京浜急行生麦駅に向かいます。

 

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生麦駅に到着です。

 

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ここから徒歩で10分程度です。

 

しばらく行くと、首都高速が見えてきました。

 

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まっすぐ行けば、大黒ふ頭、横浜ベイブリッジはすぐそこです。

 

左折して、「旧東海道」に入ります。

 

当時の面影はありません。

(赤丸辺りが現場かと思われます)

 

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事件現場を示す案内板があります。

 

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案内板です。

 

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160年前の出来事が語り継がれています。

 

 

ここから、生麦事件碑」に向かいます。

 

来た道を戻り、旧東海道を西へと向かいます。

 

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首都高速を仰ぎ見ます。

 

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なんか、「巨大な競技場」みたいな高速道路ですね。

 

さらに高速沿いの旧東海道を直進します。

 

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左手一帯は、キリンビール横浜工場の緑地帯のようです。

 

すぐ先が、「生麦事件碑」です。

 

高速道路の向こうに「キリン横浜ビアビレッジ」が見えます。

 

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生麦事件碑」に到着です。

 

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生麦事件碑」は、リチャードソン氏が落命したこの場所に、明治16年(1883年)に鶴見の黒川荘三氏により建てられたものです。

 

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リチャードソン氏のお墓は、山手の外国人墓地横浜市中区)にあり、ここは事件を記す「碑」です。

 

薩英戦争

事件を受けて、イギリスは、幕府に対し10万ポンド、薩摩藩に対し2万5千ポンドの賠償金と実行者の処罰を要求しました。

 

翌年、要求に応じない薩摩藩と直接交渉するため軍艦7隻を鹿児島湾に入港させました。

 

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 (2020.10 節約旅行 鹿児島・桜島へ 以下同じ。)

 

交渉は不調に終わり、文久3年7月2日(1863年8月15日)、薩摩藩船の拿捕をきっかけに、「薩英戦争」が始まりました。

 

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薩摩藩側は大きな被害を受けましたが、イギリス艦隊側も損害を受け、2日後には、鹿児島湾を去りました。

 

日本近代化の幕開け

薩英戦争で、西洋文明の強大さを痛感した薩摩藩は、攘夷から開国へと大きく舵を切ります。

 

薩英戦争から2年後の慶応元年(1865年)には、15名の留学生と4名の使節を、和解したイギリスに派遣しました。

 

鹿児島中央駅前に立つ「若き薩摩の群像」

 

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彼らは、帰国後、日本の近代化に大きく貢献しました。

 

その中の一人が「五大友厚」

 

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鹿児島市内)

「西の五代(友厚) 東の渋沢(栄一)」とも言われる実業家です。

 

 

生麦事件は、日本が封建制から近代国家へと大きく変貌する激動の時代に起きた不幸な出来事の一つともいえるでしょう。

 

生麦事件碑の前では、現在も地域の方々らによる追悼祭が行われています。